その時代



時代の色を感じさせる歌謡曲や軍歌の数々
  北野家の夕食の準備中に智子(西尾三枝子)と礼子(坂倉春江)がテレビから流れる流行歌に母親(月丘夢路)をも巻き込んで夢中になる場面があります。
  それは「バラが咲いた」作詞作曲:浜口庫之助)と「いつまでもいつもでも」(作詞作曲:佐々木勉)です。前者はマイク真木さんが、後者はザ・サベージが唄ってヒットしました。二曲ともフォークソングの黎明期の曲です。
  一方、父親良作(佐野周二)は「麦と兵隊」(作詞:藤田まさと・作曲:大村能章)を始めとした軍歌の方が好きで、酒に酔うと唄い出します。
嫁を迎えたら「しゃもじを渡さなければ」と主張する義理父
  義父良作(佐野周二)は、妻あや子(月丘夢路)から当分の間は大蔵大臣は変わらないとの報告に「嫁を迎えたらしゃもじは渡さなければ」と主張します。今ではほとんど使われない言葉ですが、「しゃもじ」とは家計の意味です。
  明治時代より食物の管理・配分や家人の衣服などの家計消費面を主管する権限である主婦権を譲渡するのを「しゃもじ渡し」と言います。まだ、道子には「しゃもじ」を任されるのは荷が重いようです。
給与は銀行振込ではなく重みのある現金支給
  良一は最初の給料を封を切らずに全額道子に渡します。この頃はまだ給与やボーナスは現金支給が主流でした。
  しかし、1968年(昭和43年)12月10日朝、東京・府中市内で現金約3億円を積んだ現金輸送車が白バイ警官を装った男に車ごと奪われた「3億円事件」をきっかけに、給与等の“現金支給”から“口座振込”に代わって行ったそうです。父親の権威の一つが失われたとも言われています。
我が家の最大の娯楽のテレビから流れる流行歌
  老朽化の激しいテレビの音量を小さくするように智子(西尾三枝子)と礼子(坂倉春江)が注意を父親(佐野周二)から受けますが、そこから流れていた曲はブルー・コメットの「青い瞳」(作詞:橋本淳・作曲:井上忠)です。また、翌日に良一(山本豊三)が月賦で買ってくれた新品のテレビからは荒木一郎さんの「今夜は踊ろう」(作詞作曲:荒木一郎)です。グループサウンド最盛期の当時のヒット曲です。
  当時は家庭での娯楽の中心はテレビのようでした。
「家つき・カーつき・ババ抜き」という流行語
  向かい隣のお姑さん(高橋豊子)が、北野家で嫁の愚痴を散々言います。その中でお嫁さんの鈴子(曽我町子)が「家つき・カーつき・ババ抜き」が良いとお嫁に来る前に言っていた文句を姑さんが言います。
  「家つき・カーつき・ババ抜き」という言葉は、1960年代の高度成長期に流行した核家族化を象徴した言葉です。この言葉はこの時代の若い女性が結婚をするのに、相手は家を持っていて、車を持っていて、ばばあがいないのが条件を表したものです。。この言葉が実現して幸福になったかは個々人の問題のようです。得たものは見えても、失ったものは気がつかないようです。テレビドラマ『お嫁さん』を観ているとそんな気がふとします。
御茶ノ水近くの消えた路面電車のある風景
  孝子(呉恵美子)が盲腸で入院する御茶ノ水にある大学病院に見舞いへ行きますが、その病院の前に路面電車が走っている光景を見ることができます。
  この路面電車は、新宿〜市ヶ谷〜御茶ノ水〜秋葉原〜水天宮までの13系統の都電です。この路線は1970年(昭和45年)3月26日に営業終了していますので、『お嫁さん』の放映当時は都民の足として活躍していました。また、北野家では時々電車の走る音が聞こえますが、これは駒込駅付近を走っていた都電19系統と考えられます。
鰹節の削り方を講義するベテラン主婦道子の母親
  北野家を訪れた道子の母親みね子(藤間紫)は、道子の主婦ぶりを見て具現を呈します。そのなかでも鰹節の削り方の蘊蓄(うんちく)は、ベテランの主婦の貫禄が充分感じられる場面でした。
  鰹節の削り器は、昭和40年代まではどこの家庭にもあり、その削る役目は父親か子供かと相場が決まっていました。しかし、昭和40年代半ば頃から鰹節のフレッシュパックが家庭に普及して、鰹節削り器も遠い存在になってしまいました。
日本の空の表玄関は成田空港ではなく羽田空港
  バンコクに転勤になる同僚の坂本を見送りに行く良一と道子は、成田空港ではなく羽田空港に行きます。放映当時は、成田空港はなく羽田空港が日本の空の表玄関でした。
  1960年代になると、国際運送についての航空機の重要性が高まり、羽田空港は手狭となり、首都圏に大型の空港が必要とされました。1966年(昭和41年)に千葉県成田市三里塚に建設が決定しましたが、地元の反対に合い、成田空港が開港したのは1978年(昭和53年)5月20日でした。
良作のバッティングフォームは一世を風靡した「てんびん打法」
  義父良作(佐野周二)が会社の早朝野球でバッターボックスに立つ姿は、当時の大洋ホエールズの近藤和彦の有名なバッティング「てんびん打法」を真似していました。
  近藤和彦さんは、1936年(昭和11年)3月2日生まれました。京都の平安高校、明冶大学を経て1958年(昭和33年)に大洋(現:横浜)に入団しました。てんびん棒を担ぐようにバットを寝かせて構え、クルクル回しながらタイミングを取る独特な打法から巧打を放ち、ファンの評判を呼びました。2002年(平成14年)6月10日に66歳の生涯を閉じました。
北野家の清涼飲料水は冷たいファンタオレンジ
  北野家では冷蔵庫の中から清涼飲料水としてファンタオレンジがよく登場します。今のように清涼飲料水の種類が多くなく、私もよく飲んだものです。
  ファンタオレンジは、日本では1958年(昭和33年)4月にレギュラーサイズ瓶の販売を開始しました。ファンタオレンジの350ml缶が発売されたのが、1968年(昭和43年)1月ですので、放映当時は瓶しか存在しないことになります。因みに「ファンタ」の名前の由来は、Fantasy(空想)、Fantastic(空想的な、実に素晴らしい)から来ていると言われています。
「週刊新潮は本日発売です」で浮気記事に読み耽る孝子
  偶然美人と自動車に乗る良一を目撃した孝子(呉美恵子)は、日本舞踊の稽古先で週刊新潮のサラリーマンの浮気記事を読み、ますます義兄への疑いを深めていきます。「二百円亭主」という台詞がありますが、放映当時の団地サラリーマンの一日の小遣い260円でした。
  「週刊新潮」は、1956年(昭和31年)2月6日に創刊されました。新聞社が独占していた週刊誌を一般の出版社が初めてで、週刊誌の火つけ役となりました。その後、「週刊女性」、「女性自身」、「週刊明星」などが続き、創刊ラッシュとなります。
良一と土曜の午後をボーリングで楽しむ道子
  良一は土曜日の午後に道子の替りに父善太郎(笠智衆)に北野家の留守番役を頼みボリングに誘います。
  1964年(昭和39年)頃から各地方都市にボウリング場の建設が進み、テレビなどでもボウリングが盛んに放映されるようになります。そして、今までの若者主導型から主婦や中年層までをも巻き込んでボーリングファンが広りました。1970年代に入ると特に中山律子さんを始めとした女性プロボウラーの人気が高まり、おもちゃのボーリングゲームも大ヒットしました。
「ご破算で願いましては」とソロバンと格闘する良一
  暑い中、扇風機を止めて良一は自宅で同僚の山川(佐々木功)と徹夜で算盤を使って資料作成に没頭します。
  今ならば冷房の効いた部屋でパソコンで資料作りをするか電卓を叩いて計算をする風景になると思います。ちなみに卓上電子計算機は、1964年(昭和39年)にシャープとソニーが発売しましたが53万5000円しました。放送当時(昭和42年)はオールIC電卓が発売され、その値段は23万円(国家公務員の大学卒業初任給:25、200円)で個人が買う品物ではありませんでした。
女性亡国論を例に自分の大学生活を振返る智子
  夏休みにアルバイトと馬術部の合宿で貴重な体験をし、成長して帰って来た智子(西尾三枝子)は、自分の大学生活を振返ります。そして、女性亡国論を例にして大学を辞め、働く決心を道子に告白します。
  女性亡国論は、元早稲田大名誉教授の暉峻康隆さんが1962年(昭和37年)3月号の『婦人公論』に寄せた<女子学生世にはばかる ―彼女らの目的は何か―〉の中で女大生は結婚までの教養組が圧倒的だと女子大生を批判したと一大論争を巻き起こしました。これは1960年代の大学の大衆化と女子大生の急増が背景がありました。